1970年バロンドールに相応しいのはミュラー?リーバ?ペレ? - サカなん
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バロンドールは元々、欧州年間最優秀選手賞として1956年に作られた。それから1994年までの39年間はヨーロッパ国籍の選手限定のまま表彰を続けていた。1995年に初めて、UEFAに加盟するクラブチームに所属しているという条件付きではあるが、対象者の国籍を問わないことになった。2007年からは、UEFAに限らず、全世界のリーグも対象となり、晴れて「世界年間最優秀選手賞」の扱いになったのである。とは言え、ワールドクラスの選手がヨーロッパのリーグに一堂に会する現代のサッカー界なのだから、1995年からでも実質「世界年間最優秀選手賞」と言って差し支えないだろう。
このような歴史的背景から、バロンドールを創立したフランス・フットボール誌は、2016年のバロンドール60周年に際し、1994年以前の受賞者を再度評価し直した。つまり、「創立当初からバロンドールが全世界の選手を対象にしたものだったら受賞者は誰になっていたか」を仮想したのだ。その内12回が、再評価の結果、正規の受賞者とは別の選手が受賞に相応しかったという結論に至った。
12回の内の一つは1970年バロンドール。正式な受賞者は、西ドイツ国籍のゲルト・ミュラーだ。しかし、フランス・フットボール誌は、ブラジルのペレが受賞に相応しかったと認定した。ここでは、その理由を考察していく。
正式な受賞者 | 再評価された選手 | |
選手 | ゲルト・ミュラー | ペレ |
国籍 | 西ドイツ | ブラジル |
所属 | バイエルン・ミュンヘン(西ドイツ) | サントス(ブラジル) |
ポジション |
FW |
FW、MF |
チーム タイトル |
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・FIFAワールドカップ優勝 |
主な個人 タイトル |
・ブンデスリーガ得点王(33試合38得点) ・FIFAワールドカップ得点王(6試合10得点) |
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その他 要素 |
・FIFAワールドカップ3位入賞 |
・ブラジル国内公式戦で年間46試合66得点 ・FIFAワールドカップ3度目の優勝という前人未到の大偉業を達成(現在でも一人だけ) |
個人成績だけでバロンドールを受賞したゲルト・ミュラー
現在でも欧州史上最高の点取り屋として名高い「爆撃機」ゲルト・ミュラー。
ドリブル技術やパスセンスはほぼ無いに等しく、身体能力も特別高いわけではない。
華やかさとはかけ離れた選手だったが、優れた嗅覚とポジショニング、どのような体勢からでもシュートを押し込もうとする執念と泥臭さを武器にゴールを量産した伝説のストライカーだ。
彼が1970年にバロンドールを獲得できたのはFIFAワールドカップでの活躍によるところが大きい。
持ち前の得点感覚で西ドイツ代表の主軸を担ったミュラーは、6試合に出場し10得点をあげた。
一大会で10点以上を記録した選手は、1954年大会のシャーンドル・コチシュ(ハンガリー、11点)、1958年大会のジュスト・フォンテーヌ(フランス、13点)、そして同大会のミュラーの三人だけしかいない。
出場した6試合中4試合で決勝点を決めるなど、重要なゴールも多かった。
ちなみにグループリーグでは全3試合中2試合でハットトリックを達成している。
1970年は所属するバイエルン・ミュンヘンでのタイトルに恵まれなかったミュラーだが、個人ではリーグ戦33試合に出場し38得点をあげた。
ブンデスリーガ得点王はもちろん、この得点数はその他の欧州リーグでもダントツの記録であり、ヨーロッパ・ゴールデンシューにも輝いている。
ミュラーは結局のところ、クラブでもナショナルでも全くチームタイトルに縁がなかった。
そんな彼が1970年バロンドールに選ばれたのは、個人レベルでの成績とインパクトの賜物だろう。
個人の評価だけで欧州最高の称号を得た、当時としても珍しい例だ。
チームタイトルも獲得したルイジ・リーバ
もし、チームタイトルにも評価の重きを置くのであれば、ルイジ・リーバがバロンドール最有力だったのではないだろうか。
所属クラブのカリアリでセリエAを制覇し、個人としてもリーグ得点王を獲得した。
さらにワールドカップでは、イタリア代表として欧州最高位の準優勝にまで上り詰めている。
ここまでの成績であればリーバがバロンドールを受賞していてもおかしくはないが、実際のバロンドール投票では首位ミュラーとわずか12ポイント差の3位入賞に終わっている。
ちなみに2位はイングランドのボビー・ムーアだった。
ワールドカップで印象的な活躍をしたボビー・ムーア
1970年のムーアはミュラーと同様、タイトルに恵まれていない。
それでもバロンドール投票の2位に選ばれたのはワールドカップでの活躍が大きく影響している。
イングランドは大会をベスト8で終えたものの、ムーアは持ち前のキャプテンシーとディフェンススキルで抜群の存在感を放っていた。
特にブラジル戦は、彼が世界最高のDFであることを証明するかのようなパフォーマンスだった。
ムーアはペレやジャイルジーニョと何度もマッチアップし、華麗なタックルの数々でことごとくピンチの芽を摘み取っていったのだ。
この試合でイングランドは敗れたが、大会中1試合3得点以上が当たり前のブラジルを相手に僅か1失点で抑えている。
ペレは試合後にムーアに駆け寄り、ユニフォーム交換を申し出たエピソードはあまりにも有名だ。
ペレもタイトルに縁がなかったが…
ミュラーの受賞から46年後の2016年、フランス・フットボール誌は、当時のバロンドールが全世界の選手を対象にしていたとしたら1970年バロンドールの受賞者はブラジルのペレだったと発表した。では、1970年がペレにとってどういった年だったのかを振り返っていく。
ペレもこの年は、ミュラー同様に所属クラブでのチームタイトルには恵まれなかった。
かと言って、得点王などの個人賞にもほとんど縁がなかった。
それもそのはずだ。
年齢を重ねていくに連れて、自分だけでなく周囲の選手たちを生かすプレーに目覚めていったペレはこの頃になると点取り屋ではなくゲームメイカーとしての役割を担っていたのだ。
数字上の得点数こそ減ってはいたが、FWとMFの中間でパスやドリブルを駆使してチャンスメイクをし、他の選手に絶好機を演出したり、自らシュートを狙ったりなど、プレーの幅を広げていた。
所属クラブでの成績では、互いにチームタイトルを欠いてはいるが、個人賞という点ではミュラーに分があるのは間違いない。
しかし、1970年のペレを語るとすれば、専らFIFAワールドカップのことになるだろう。
1970年のペレが特別な理由
ペレが今日でも史上最高の選手と呼ばれる大きな要素の一つが「FIFAワールドカップを個人で3度制した」という実績だ。
現在でも、彼以外にこの大偉業を達成した選手は誰一人としていない。
そして1970年大会こそ、3度目の優勝を成し遂げた記念すべき大会だった。
1970年ワールドカップのブラジル代表は、しばしば史上最高のチームの一つに数えられる。
本大会を制覇した実力はもちろん、勝利への道筋も美しいチームだった。
FWはペレ、トスタン、リベリーノ、そしてジャイルジーニョといった世界でも指折りの顔触れで、そこにジェルソンらMFも含めた全てのオフェンスの選手がポジションを流動的に入れ替えて攻撃を組み立てるのが彼らのスタイルだった。
攻め上がったサイドバックまでもが機を見てシュートを狙っていた。
多彩な攻撃で相手を圧倒するブラジル代表のサッカーは芸術と称賛された。
ペレはその中心で多くのチャンスを演出し、チームの攻撃力を何倍にも引き上げた。
ポジションはFWだが、下がり目の位置でボールを受けることが多く、世界屈指のテクニックで主にチャンスメイクを担った。
その役割の中でさえ持ち前の得点力を発揮し、自らも4得点を挙げて見せた。
この活躍で大会MVPにも選ばれている(ミュラーは優秀選手3位)。
唯一無二の王となったペレに相応しい賞は一つしかない
両選手にとってワールドカップでの活躍が1970年のハイライトになる。
そうなると、優勝しているペレに大きなアドバンテージがあるのは言うまでもない。
優勝チームの中には、全試合ゴールという離れ業を見せたジャイルジーニョや、代表だけでなく所属クラブでも主要タイトルを獲得したジェルソンがいた。
しかし、個人で3度目の世界制覇という圧倒的なインパクトには到底かなうはずがない。
前人未到の記録を達成した王に捧げる称号は生半可なものでは許されないだろう。
では、何が相応しいか。
それはバロンドールに他ならない。
- 2020.07.09 Thursday
- バロンドール
- 23:43
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- by soccer-nan